入り口があって出口がある
何故だろうと考えた。教会に行ったら、右側の扉が入り口となり左側の扉が出口となっていた。入り口があって出口がある。入っていくものがあって出ていくものがある。それは一体なんだろうか。今日という日に与えられた試練に終わりはあるだろうか。明日も明後日も、同じ試練が続くのだろうか。
夕方の礼拝が始まり、人々は椅子に座って神父のお祈りを聞いた。「さて、日常について考えましょう」と、神父が言った。
人々はそれぞれの日常を思った。
今朝食べたパンとコーヒーを思い、学校へ出かけていった子供達を思い、病室で横たわる老いた親を思い、先週電車に忘れた本を思い、職場にいる面倒な同僚を思い、ここに来る途中北風に吹かれ冷たくなった自分の頬を思った。
それはまるで吹きこぼれそうなくらいとめどなく溢れてきた。日常についての想念が人々の頭の中を隙間なく埋めていった。人々の顔に苦難の色が浮かんで来た頃、神父が言った。
「今日という日常に起きたことは、今日という一日が終わるのと共に終えましょう。今日という一日と共に、今日あったことは全て閉じましょう、まるで本を閉じるように。」
そうして静かに続けた。
「入り口から入ってきたものを、出口からちゃんと出してあげましょう。それはあなたがたにもたらされた救いです。出口があるということは、救いでもあるのです。」
日常についての想念は、出口をすり抜けて彼方へ飛んで行った。さっきまで人生に重しをかけていた何かはどこかへ去ってしまった。人々は席を立ち、順番に並んで出口から出て行った。
入り口があって出口がある。
その意味を知り、家路へとつき、やがて静かに一日を閉じた。