threewitches’s blog

元々は舞台・映画鑑賞が大好き。でも最近はテレビを見る時間が出来て、今までを取り返すかのようにドラマを見まくっています。そんな中、感想や独り言を思うままに書き留めたブログです。

Macbeth Act 1-1

考えようによっては、今日の私は怒りの塊であったし、考えようによっては慈悲深い仏の心境でもあった。声を荒げたりもしなかった。厳しい言葉も放たなかった。睨みもせず、恨みもせず。その一方で私の胸の中は殺意でいっぱいだった。殺意という毒がどくどくどくどくと全身にまわって地の果てに落ちていってしまいそうだった。謎のような心内。

ああ、かくも人生は世知辛いことで満載だ。うなだれて帰路について、でも電車に乗ったらもう週末の予定に思考が切り替わっていた。かくも人間は現金なものだ。

”Fair is foul, and foul is fair”

 

(Macbeth: William Shakespeare)

 

お暇してました

最後の記事から9ヶ月が経過している。しばしのお暇を取っていた間も、ドラマも映画も舞台も変わらず観ていた。勿論、朝ドラも。

 

朝ドラは広瀬すずちゃんがどのアングルから見ても美人なのと、松嶋菜々子さんの癒しボイスが北海道弁で4割り増しくらいになってる上に、中川大志くんが本当に器用で上手くて可愛くて癒し。

 

中川大志くんは器用すぎて、そつなくやりすぎてて、その凄さが伝わりづらい人なのでは?と親戚のような親心が湧いてしまう。器用貧乏。みたいな。まだ二十歳なんだなぁ。

 

そつなくって点ではなつぞら自体がそんな印象の話かもしれない。そつなく器用に満遍なく進行していく。安心感。そんな予定調和なところに小石を投げいれてさざ波をたててくれるのがいつもじいちゃんだ。じいちゃんが出てくるシーンはいつも胸熱。何度画面を見ながら涙したことか。クランクアップ時の映像をインスタで見たけれど、そんな時も格好良くて、広瀬すずちゃんにお疲れ様のハグをする様も格好良くてジンときた。会社でその話をしたら、カツラだったとしても?と謎な突っ込みを受けたけれど、そんなの関係ない!草刈正雄さんは断固としてカッコいい!という結論に至った。ついでに染谷将太さん演じる神っちは下を巻くうまさで大好きなキャラ。それに反してまゆゆの茜ちゃんが・・まゆゆは可愛いんだけど、アニメ映画を作るパッションが感じられなくて、何故いつも生活に疲れた主婦のようなテンションなんだ!?と居心地悪かった。

 

もう一人さざ波をたててくれたのが、清原伽耶ちゃん。私の大好きな女優さん。千遥は誰が演じるんだろうと楽しみにしてたとこに、清原伽耶ちゃんが登場した時の喜びと言ったら。それに色々な事情を抱えた役柄の緊張感が、演じる表情から立ち姿から仄めくようで短い登場だったけど大満足だった。拍手喝采👏また登場しないかなぁ。

 

清原伽耶ちゃんと言えば、最近WOWOWでやったドラマWの「ポイズンドーター・ホーリーマザー」もよかった。清原伽耶ちゃんはさることながら、他の回も演者の迫真の演技が上手い、というか怖くて、夏の夜のミステリーにぴったり。正気かと思えば狂気へのラインをすんなり超えて見せたり、また正気に戻ったり、かと思えば狂気へ、また正気へ。行ったり来たりする様は誰の心にも起こりそうでゾッとした。そして凄く面白かった。あな番が怖くて眠れないだなんてお子ちゃまのレベルで、本当のミステリーがお望みであれば、こちらを是非どうぞと勧めたい。

 

朝ドラは今回も完走出来そうだ。半分青いは最後の方は頑張って完走した。まんぷくは最後まで面白くて気付いたら完走していた。その前にチキンラーメンも案の定食べた。なつぞらは難なく完走出来そう。お話の進行具合と同じで綺麗にまとまり安心感のあるゴールを迎える様が予想できる。

 

そうは言っても、この後またいくつかの美しいさざ波をたててくれることを期待してやまない。じいちゃんと千遥に。

 

恋のツキ、からの中村倫也ロス

2018年ドラマランキングトップ10      

1位 透明なゆりかご            

2位 アンナチュラル             

3位 日本版コールドケース         

4位 大恋愛

5位 今日から俺は

6位 バイプレイヤーズ

7位 dele

8位 恋のツキ

9位 結婚相手は抽選で

10位 僕らは奇跡でできている

 

今年はたくさんのドラマを見た。家のDVDプレーヤーについている「ドラ丸」という機能を使って自動録画し、見れるものは深夜のものも含め見た(もちろん1.5倍速を駆使して)。そして思うがまま5段階評価で点数をつけた結果がこのランキング。同列のものもあったかな。全部で50近くあったからたくさん見たなぁ、とちょっと感慨深い。お陰でずっと前から気になっていた大きなサイズのビーズクッションも買ったよ(しかし腰痛になるリスクあり)。HDDに入りきらなくなって、DVD—Rを買って録画もしたよ。だからまだ見れていないものが沢山ある。「昭和元禄落語心中」と「この世界の片隅に」、まだ見れてない。。。でもひとまずのランキング。

 

ランキングを見ていて、同じようなテーマだけど全然違ったな、と思ったのが「恋のツキ」と「中学聖日記」。男の子の役には共通点があって、どちらも思春期真っ盛り。そして暴走しがちでエゴにも欲望にもよく言って素直。悪く言えば傍若無人。でも、この二つのドラマで何が決定的に違うかって、それはルール違反だと知りつつその男の子に手を出す大人側の描き方。ちなみに私は断然「恋のツキ」の方が好き。

 

恋のツキ」は、神尾楓珠君がミステリアスな雰囲気でかっこいいこともさることながら、思春期の危うい感じを出していて上手かったな。高校一年生の役も違和感なかった。最初の方はまだあどけなくて年上女性への憧れが強い感じ。それがワコさんへの独占欲や欲望に変わっていき、どんどん突っ走っていく危うさがまた上手くてはらはらして魅せられた。徳永えりも凄く良かった!煮えきらない時のワコさんの表情や口調なんかが生々しくて。未成年との交際は犯罪だと分かっていながらも止めないワコさんの浅ましさや、欲望に敢えて負けていっているようなところを凄くリアルに演じていたと思う。後半はイコ君の思春期さながらの暴走や子供っぽい甘えと、ワコさんの持つずるさやねじれた大人の甘えがどんどんこじれていくから、二人の関係性に限界が見えてきてそして破綻していく。

 

でもそれって、元はと言えば、ワコさんが自律できていない自分と向き合わないまま、自分よりも弱くて支配できるイコ君との関係に逃げていったから起きたこと。イコ君はその餌食になったとも言える。「恋のツキ」では、こういうリアルさにはまったし、面白かった。ドラマの中でワコさんはずるい女に映ったし、意志が弱そうでいて貪欲なところも見えたし、それを美化せず描いているとこに共感してぐっときた。映像もそれにマッチしていて良かった。

 

一方で、「中学聖日記」はと言うと?「恋のツキ」とは全然違っていた。岡田健史君演じる黒岩君は、「恋のツキ」の神尾楓珠君演じるイコ君よりもまだ幼くて中学生という役どころ。岡田健史君がフレッシュでただひたすらかっこよかった。彼のお芝居は初々しいながらも目の動きや表情なんかが役と合ってて良かったな。それと吉田羊さん素敵だったなぁ。コールドケースの役も好きだけど、このドラマもかっこよかった。

 

でも、見終わってみて、岡田健史くんが飾った鮮烈なデビューフィーバーが収まると、それでなんでこのドラマを作った?という疑問が強く残った。

恋のツキ」に比べると、どうして聖先生が中学生に手を出したのかが皆目見えてこない。黒岩君の執拗な押しに負けてしまった意志の弱い女性、って風でもない。婚約者との付き合いがギクシャクしていたからといって、教え子でしかもまだ子供に惹かれるってある・・?あったとして、若干ストーカー気味な相手なのに傷の手当てをする為に不用意に家にあげたり、地元の花火大会から手を繋いで帰ってきたり・・・する?聖ちゃんは先生と言う職業が好きだと言うけれど、どう考えても黒岩君のことの方が好きだよね?と思えてしまう。それならそれで己の恥と欲望に負けている様を潔く認めてもっとドラマティックにすれば面白さも増すのに!と、あ、途中で脱線。

 

なんだかこのドラマは、聖先生のエゴイスティックな言動(何故すぐに親や他の先生に連絡しないのかとか)や黒岩君の思春期にありがちな欲望の暴走とか、アグリーなものを扱っているのにそれを誤魔化してひたすら美しく描こうとしていること自体が美しくなかった。結局最後見終わった時に胸に残ったものは、「黒岩君のスーツ姿かっこよすぎ・・」ということくらい。でもきっとそれがこのドラマが残したメインテーマだったのかも。このストーリーを敢えて美化して描いた意図は、岡田健史君の美しさを際立たせる為。未成年との恋愛は犯罪だってことを伝えたかったとか、はたまた中学生に手を出しても、大人になるまで待ってその想いが成就すれば純愛だとかを描きたかったのではなく(純愛だとは思えないけど)。そうじゃなかったら、日本人て表向きは犯罪としても本音ではこういうのを美化する国だったっけ?とも思う。

 

そんなわけで、岡田健史くんのかっこよさで言えばトップにくるくらいだけど、ドラマとしてはこんなに中身のないものもないな、ということで圏外になってしまった。黒岩君のイケメンぷりと初々しさが鮮烈で、それだけが鮮烈なドラマだった。そしてそれは驚異的にフォロワー数が増えている岡田健史君のインスタの人気ぶりが既に物語っているのかも。超がつくほどのイケメンはやっぱり希で、そんな逸材を発見してドラマの主演に起用してくれて有難う、という感謝の気持ちを残しておこう。

 

ところで役どころと言えば、「ドロ刑」の皇子山は好きだった。中村倫也さんが怒鳴るシーンは完全にスイッチが入っていて共演者の人もあの間でやられるとビクっとしちゃわないかな、と思ったくらい見ていて迫真もので次回作が楽しみ。長々書いたけど、結局2018年のドラマ総括は前回に引き続き、中村倫也ロスというところかな。うん、今年に相応しい。来年はどんな年になるのかな。

悲しみよ、消えないでくれ

とてもキャッチーなタイトルだから、これだけでも気になる。そしてモダンスイマーズと聞いてもっと気になる!すぐにチケットを予約して、そうしてつい最近観てきた。

 

人は自分の弱さと向き合えない時、開き直ったり、逃げ隠れたり、他人を責めたり、弱い己れを戒めようとしたり、どんな行動に出るかは千差万別だろうと思う。舞台の登場人物のキャラクターは、卑屈だったり強がりだったりと色々。それでいて、どの台詞もどこか共感できるものだった。だからこそ微妙な場面でも笑いが起きて、次の瞬間にはどこかから呼び覚まされた感情が溢れてきて涙が出た。そしてそれはもう、ひとえに素晴らしい脚本と演出と芝居だったから。例えネガティブにうつる態度や台詞でも、自分にも芽生え得るものだと思えたし、だからこそ誰のことも責められないし、責めたくなかった。

 

登場人物は8人。それぞれが秘密を抱え、ちゃんと向き合えていない何かしらの弱さを抱えたまま、山小屋に集ったとある一日。名目は事故死した人を偲ぶ為の集い。それなのに、故人は時に置いてきぼりにされる。みんな今の自分の現実と向き合うのに必死だから。物語が進行していく内に、それはどんどん色濃くなっていく。死んでしまった人のことは、実のところもう過ぎたことなのだ。それを、みんながみんな自覚していないのかもしれないけれど。「あれからもう2年」、「いやまだ2年」、なんてやり取りもありつつ。

 

その山小屋は人里離れているようでいて、携帯の電波は通じるようになったし、「下」の世界との行き来も簡単にできる。人は自由だけど、縛られている。他人に、自分に、社会に、理想に、道徳に、感傷に、自分を取り巻く世界に。そんな風に数多のものに縛られている内に、誰かを失った悲しみは薄らいでいってしまうんだろうか。そんな時に、悲しみが薄らいでいくのに抗いたい人はどうしたらいいんだろう。


でんでんさんが、何度も何度も言う、「分からないんだよ」という台詞。それは零れる度に意味が違って、熱量も違って、聴く人の心を小さく震わせたかと思えば、時に胸ぐらを突然つかむみたいに心を揺さぶった。自分の気持ちが分からない。誰かの言動の意味が分からない。分からないことがたくさんあって、心の整理もままならず、自分はまだ悲しみを乗り越えていないのに、周りの世界では悲しみは薄らいで行く。そんな風にクライマックスを迎えていって、グルグルグルグル色んな感情が私の中でもほとばしり、最後、雪が舞い一人山小屋に残されたでんでんさんが、椅子にうなだれるように座っている影を見て説明し難い気持ちになった。とても孤独で、人生の最期の画みたいに見えた。未だになんて表現したらいいのか分からない。あ、これも「分からない」だ。胸に留めて温めておけば、いつかハッとする時が訪れるだろうか。この舞台を観て感じたことを大事に留めておこう。


久々に観た演劇。モダンスイマーズ。なにもかもが素晴らしかったし演劇の面白さを再確認した日でもあった。もちろん、「死ンデ、イル」もチケットを取った。今からとても楽しみ。

さびしい宝石 - La Petite Bijou

私もパリのシャトレ駅にいた。2015年の夏だった。

そこは幾つもの路線が乗り入れし、乗り換える為には動く歩道を延々と歩かないといけないような大きな駅だった。駅はたくさんの人で溢れかえり、集中していないと見失いそうになった。様々なことを。もしもその時、私も本の主人公と同じ様に、幼い頃に死んだと聞かされた母親をそこで目撃したと思い込み、その女性の後を尾けたとしたらどうだろう。何故私を捨てたのか問いただそうという思いに取り憑かれ、そうしてふと、私はどうしてこんなことをしているんだろう、私は一体何者なんだろう、と突然自分自身に問うたとしたら。


それはとても孤独で、耐え難いくらい寂しいことかもしれない。


ノーベル文学賞を受賞した、パトリック・モディアノの小説を母に勧められて読んだ。現代フランス人が一体どんな小説を好んで読んでいるのだろうと興味津々だったが、終わりが近づくにつれ、フランス人はなんて暗いんだろうと思った。そして終わりまで読んでしまうと、フランス映画を観終わった時のような後味が残った。決してストレートなメッセージがあるわけではなく、その場に漂う雰囲気から伝わる情感。言葉の端々に浮かぶアンニュイな感じ。いやもう、とにかく暗かった。母親がモロッコからの移民であることを想像させるところや、様々な言語のラジオ放送を翻訳する職業を持つ男など、歴史的に移民を受け入れ、多様な文化が混在するが故に光も影も存在するパリという街の空気が伝わってくる本でもあった。


パリはグラマラスな街だ。宮殿のような建物がいくつもあり、セーヌ川を渡る橋はどれも美しく個性的だ。装飾的な街、とも言えるかもしれない。でも、そんな光が当たる場所の裏に、パリの影がある。地下鉄に乗れば、見た目だけで貧富の差がそれとなくわかる。そしてその「見た目」という基準には、人種も含まれていると感じざるをえないものがある。


2015年の夏にパリを訪れた時、私は初めてAirbnbを利用した。当初はサンジェルマン辺りを探していたのだけれど、直前に調べたので良さそうなところは空きがなく、結局なんでだかもう忘れてしまったけれど、モンパルナスビエンナヴュー駅から徒歩10分くらいの場所を予約した。モンパルナス駅も幾つもの路線が乗り入れしている大きな駅だった。駅を出て6車線くらいはありそうな広い道を進み、幾つ目かの角を右に曲がり大層古ぼけたホテルの目の前の建物にAirbnbはあった。集合住宅(もしくはフランス風近代的な見た目のアパート)の中にある小さな部屋だった。


私が道に迷ってしまいAirbnbのオーナーに電話をした時、彼女はとても不親切だった。そしてとても不機嫌だった。その日は耐え難いほど暑かったし、きっと暑さのせいでイライラしていたんだろうと思うことにしたけど、「失礼な態度」の一歩手前くらいだった。彼女は何系フランス人だったんだろう。肌の感じだと、アフリカかアラブの血が混じっていそうだった。部屋を案内する間、彼女はずっとフェイクスマイルを顔に湛えていた。


集合住宅の見た目はまあまあ近代的だったのに、中に入るとかなり古く、廊下は真っ暗だった。タイマー式のライトがついていて、スイッチの場所を知っていなければ真っ暗闇の中自分の部屋まで行くはめになる。そして、部屋には番号が印されていなかった。最初はオーナーに案内されたので、番号が印してあるかどうかなんて気にせず出かけて帰ってきたら、どのドアも同じように見える上に廊下は真っ暗。なんとなくこの方角だったような気がする、という思いであたりをつけた部屋は鍵穴に鍵は入るけれど回らない。ガチャガチャとなんとか回そうとしている内にタイマーが切れて廊下のライトが消える。スイッチまで戻りライトを点け、また試す。結局私が泊まっていた部屋は別な場所にあった。


泊まった部屋の窓からは、小さくエッフェル塔が見えた。午前0時にライトアップされたエッフェル塔はとても綺麗だったけれど、同時に私は寂しい気持ちになった。一人旅だったせいもあるかもしれない。モンパルナス駅から幾つものカフェを通り過ぎ楽しそうに晩御飯を食べる人々を尻目にこの集合住宅まで辿りつく。エレベーターから降りると廊下は真っ暗。ライトはタイマー式だからスイッチを押しても30秒くらいたつとまた廊下は暗闇の中に戻る。そんなものの後に見るエッフェル塔は、私をどこかアンニュイな気持ちにさせた。この小説を読んでいる内に、あの時のパリを思い出した。光が当たるパリ。グラマラスなパリ。一歩それればアンニュイな気持ちになるパリ。多様な人種。人種間の差。広大な駅。でも人々は忙しすぎて、一目散に家路につくことばかり考えていて、そんな「差」については誰も目もくれようとしていないように私の目には映った。少なくとも、光が当たる場所にいる人々は。


想像してみる。


主人公のように、あの街で、幼い頃に母親に捨てられた理由を探し求めたとしたら、どうだろう。母親は嘘で塗り固められた人生を送っていた。主人公が幼い頃に見聞きしたもの、母親がいなくなった後に聞かされたもの。でもどれが事実かなんて分からない。教えてくれる人もいない。思いは全て主人公の中だけで巡る。どこにも出口が無い。叔父と教えられ唯一自分によくしてくれた男は本当に叔父だったのか。母親はある時羽振りが良くなり大きな家に引っ越す。中国人の料理人までいた。でも、家の中は空っぽ。主人公の心と同じような空っぽの器。言われたことをそのまま信じることが生きる術であり主人公の心の拠り所だった。母親はモロッコに逃げそこで死んだと聞かされた。でも、主人公はシャトレ駅で母親にとてもよく似た女性を見かけ後を尾ける。家まで尾ける。主人公の過去の記憶と、母親に似た女性の姿が交差して主人公の心は大きく揺さぶられる。主人公の心は常に軸を失いぐらぐらだ。自分が何者であるかも分からず、それを確かめる術も知らない。まだ若く、そして心はまだ空っぽの器のままだ。


想像してみたら、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。果てしなく寄る辺無い。とてもとても寂しい気持ち。


物語の終わりは、そこはかとない希望を残して終わる。わずかでも希望があって欲しいと思いたくなるような小説だった。主人公には留まるべき場所がない。心の拠り所もない。そこに一片の思い出でもいい。胸が暖かくなるようなものがあればいいのだけれど、それが無いまま、小説は終わる。


暗い小説だった。でも、分かる気もする。パリの光と影を肌で感じたことがあるならば、この小説は人が抱える寂しさに触れる何かがあると思う。



入り口があって出口がある


何故だろうと考えた。教会に行ったら、右側の扉が入り口となり左側の扉が出口となっていた。入り口があって出口がある。入っていくものがあって出ていくものがある。それは一体なんだろうか。今日という日に与えられた試練に終わりはあるだろうか。明日も明後日も、同じ試練が続くのだろうか。


夕方の礼拝が始まり、人々は椅子に座って神父のお祈りを聞いた。「さて、日常について考えましょう」と、神父が言った。


人々はそれぞれの日常を思った。


今朝食べたパンとコーヒーを思い、学校へ出かけていった子供達を思い、病室で横たわる老いた親を思い、先週電車に忘れた本を思い、職場にいる面倒な同僚を思い、ここに来る途中北風に吹かれ冷たくなった自分の頬を思った。


それはまるで吹きこぼれそうなくらいとめどなく溢れてきた。日常についての想念が人々の頭の中を隙間なく埋めていった。人々の顔に苦難の色が浮かんで来た頃、神父が言った。


「今日という日常に起きたことは、今日という一日が終わるのと共に終えましょう。今日という一日と共に、今日あったことは全て閉じましょう、まるで本を閉じるように。」


そうして静かに続けた。


「入り口から入ってきたものを、出口からちゃんと出してあげましょう。それはあなたがたにもたらされた救いです。出口があるということは、救いでもあるのです。」

  

日常についての想念は、出口をすり抜けて彼方へ飛んで行った。さっきまで人生に重しをかけていた何かはどこかへ去ってしまった。人々は席を立ち、順番に並んで出口から出て行った。


入り口があって出口がある。


その意味を知り、家路へとつき、やがて静かに一日を閉じた。



中村倫也ロス

前回「わろてんか」で敗北を期した朝ドラの夢。でも今再挑戦中で、「半分、青い」を見ている。そしてとっても順調だ。恋の展開についのめり込んじゃって、昔のドラマ「愛しているといってくれ」とか思い出して、あの頃の豊川悦二は最高にかっこよかった、雪駄で(ゆったりしたファッションがまたかっこよかった記憶)井の頭公園付近を常盤貴子を追いかけていって、そして踏切のところで叫んだりして、とかとか名シーンが頭の中に蘇ってきて、朝ドラから脱線して空想に耽ってしまう、くらいに良い(?)。

 

先週は清が暴走して修羅場を迎えていたけど、でもあの嫉妬の仕方なんて恋愛をし始めたばかりの頃って結構あることだし、自分の仲良い友達を受け入れられない彼女なんて長続きしないことに気付かない律も青臭くて若いなーって感じだし。修羅場だけどほのぼのしたな。その修羅場にはほのぼのしたけど、それよりもなによりも。その前に正人とすずめがうまくいきかけていたかと思いきやの、突然の正人の拒絶。公園で正人がすずめを突き飛ばした時には、その勢いのよさに、それはいかんよ!110番!!って感じでこっちの方が修羅場だった。そしてあまりにも切なかった。正人よ、そんな理由で本当は好きだったすずめを振るなんて、ビターで大人な感じを律にも爪の垢を煎じて飲ませたかったが、正人は吉祥寺に引っ越してしまった。昔々豊川悦二が常盤貴子を追いかけたあの街へ。正人はすずめが王子様と言ったのがぴったりくるくらいの王子様キャラだったな。現実にいたら律よりも正人派。正人の方が包容力があるのでは。寂しいなぁ。また登場してくれないかな、と思ってそこで気づく。これがいわゆる朝ドラで起こるという〜ロス?正人ロスになっている!ようやく私も人生で初めて最初から最後まで朝ドラを見ることができるかもしれない上に、初めての〜ロス体験。なんて満足感だろう。

 

でも、「崖っぷちホテル」も見ていて、それに出ている江口さんも好き。声や喋り方から正人と全然違っていて中村倫也はなんて器用な役者さんなんだろうと思う。浜辺美波との掛け合いも見ていて楽しいし可愛いしあれが見れなくなってしまうのも寂しい。

 

ということで、これは正人ロス、ではなく、中村倫也ロス、なのかも。次は何にどんな風にして登場してくれるのか楽しみにしていよう。当座、寂しい中村倫也ロス気分を味わいながら。